私もみん日には、、やめましょう。なんか言い訳みたいですしね。
さて、いつもある先生が色々おっしゃっているので、ついつい茶々入れてしまいたくなってしまい、もうひとりの当事者となる方がいることをつい失念してしまったこと、もうしわけないです。文章も、もちろん読ませていただきましたが、読ませる文章で素晴らしい内容でしたし、私も何度も頷きながら読ませていただきました。
では、なんかスッキリしないというところがなかったというとそういうわけではありません。ただ正直素晴らしい取り組みを始めてらしゃる方に何か言うのは、ケチを付けることになるのでは?または揚げ足をとるかたちになってしまうのでは?と本来考えるべきなのかもしれません。もちろん、そんなつもりは全く無いですし、この取組を応援しています。
スッキリしない部分というのは二箇所です。
みん日の難しさというふうに書かれているところとても良くわかりますし、自分もそう考えていた時期がありましたが、別に指導書にも教え方の手引にもそんなことは書かれていません。みな足りないと思い色々付け加えていったという経緯があると思うのです。練習Bをそのまま書かせたとしても、この教科書を使う方法としては間違えではないということだと思うのです。足りないと思うからコミュニカティブ・アプローチの手法を取り入れてみたりcan-doをでどうなるか考えてみたりしてきたわけです。ただ、それは私達個人一人一人の問題であって、教科書を渡された先生の問題ではありません。教科書の練習Aを全部読んでから練習Bを読み始めた人にどうしてこんな教え方するんですか?と聞いた時、教科書を順番に教えただけですけどと言われたことがあります。その時はお恥ずかしい話ちょっと憤慨しました。でも、よくよく考えてみると、アタリマエのことなんですよね。
教科書を変えるという決断は大変なことだと思います。でも教えられない人がいるからじゃなくて、そういう教科書だからですよね。このみん日という教科書がその学校にフィットしていないからですよね。というのが違和感の一つ。
日本語のクラスの時間を半分に分けて、半分の時間をみん日を使って文法導入、オーディオリンガル的な練習を十分積み、もう半分の時間をプロジェクトベースなんて方法もあるかもしれません。とにかくみん日からそれらのものを手早く学んでもらって、もう半分のクラスでどんどん生かしてもらう、そんなクラスもあってもいいと思います。むしろ、どなたかにやってもらいたいぐらいです。
でも例えば各課を順番に積み上げていっても、雑多にいろんなシュチュエーションが入り組んでいて、例えば一つの単元として、なにかトピックやゴールを与えようとすると一気に難しくなります。以前はそれを行おうとして、すごく苦労した記憶があります。そして学生は混乱しやすかったと思います。だからみん日できちんと授業ができる先生は問題がないという話を聞いた時、少し違和感を感じました。でも、書いているうちに、その問題をクリアしている先生がいるのかもしれない、もしいるのならばその先生の授業を見てみたいと思いました。これもブログ記事を書いているときのあるあるデス(^o^;
できる日本語は私は使ったことはありませんが、読んだことはあります。日本の日本語学校で使うには最適解の一つだと思っています。特に学生たちが学校の外に出ていくことを意識している点、そこが私が一番好きなところです。(もう一つの教科書はそこにいるというところからスタートしているのかなと思います。すみません、また感覚的な話で)それはきっとイーストウエストという学校の校風と嶋田先生のお考えに大きく影響を受けているのだと思います。みん日でも同じように作り変えることはできるかもしれません。でも、それはかなりの魔改造ですし、作った本人にしかわからないブラックボックスのような授業になるでしょうし、それをすべての先生に求めることなんてできるのかなとも思います。そういう意味ではいま「できる日本語」に変えることは、授業をすることに関して学校で働く教師同士が情報を共有し、同じ方向に向かって出発できるきっかけになるのではないかと思います。大変だと思いますが、がんばってください。
ここまで書いたことは、私がもやっと感じたことであり、この学校の現状を正しく認識していないのかもしれません。なので、あくまで、モヤッとしているところです。これから、頑張ろうとおもっているところになんか水挿してしまうような気がして、本当に申し訳ないのですが、お許しください。
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