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Twitterで質問したり教えてと助けを求めるのは、、、

最近よく思うのは「こんなことできないですか」とか「教えて下さい」的な質問や疑問に答えるのは素晴らしいことなんだけど、それと同じぐらい疑問や質問を発言するのはすばらしいという話。

情けは人のためならず

いろんな質問や疑問をTwitterで見るけど、「こんなことできないですか」とか「教えて下さい」的な発言を見る。それを見て解決方法などを考えるんだけど、大体は見た瞬間に自分が解決できるかどうか、わかる。解決するのでも、すぐさま答えられることと、ちょっと調べれば答えられること、自分の持っているいくつかの知見を組み合わせれば答えられることなど、色々ある。

でも、「こんなことできないですか」とか「教えて下さい」的なことはだいたいのことに於いて、問題にぶち当たらなければ思いつかない。自分で改善点を探したり、突然自分でなにかの疑問に気づき調べて解決なんてこともある。自分のいる環境では問題ないことであれば、それを問題だと認識しないし、認識しなければ解決のしようもないのは当然のことだ。

自分のいる環境では問題がないのだからいいのでは?と思われるかもしれないが、他の人の身に起きた問題が将来自分の身に降りかからないなんていう保証はない。他の人の疑問や質問は問題を先取りして私に準備する時間を与えてくれるためのチャンスなのかもしれない。
また、それらの疑問に答えるために調べたり考えたりする過程で、なにか発見をしたり、新しい方法を思いついたり、なんてこともよくある。

そう考えてみると、質問したり他の人に助けを求めたりするということは、他の人の学ぶチャンスを提供しているとも言えるよね。

Clubhouseで色々聞いていて

さて最近流行りのClubhouseで宇宙開発とボランティアの話を聞いていた。宇宙開発は何か日常生活で起こる何かを解決するために研究開発しているわけではない。宇宙と言う未知で非常に厳しい環境の中でも使用できるという条件をクリアするために、様々なものが開発された。そこでは例えばフィルムではなくデジタル信号に変換するカメラ(かんたんいうとデジカメだよね)だとか、ボールペンも開発されたなんて言う話も出ていた。その当時、それらの発明が日常生活に活かせると考えていたかはわからないが、我々は現在その恩恵を受けている。ある日常的ではない問題を解決するために生み出されたイノベーションが、日常の様々な問題を解決するようになったという良い例だろう。

次に聞いたのは、何かを解決しようとしたときに、一方的に与え続ける立場になってしまうと継続的に行うのは難しいと言うボランティアに関するお話。もちろん、与え続けるだけを続けるのは全くその通りでむずかしいと思う。ただ継続的に続けられるボランティアを生むためのデザインは一方的に提供し続けることができると思う。だってそれを考える過程に学びのチャンスがあり、場合によっては自分が将来自分の身に起こった問題をそれら後券で解決するかもしれないのだから。

だから遠慮なく疑問をあげよう。助けを求めよう。

もちろん「ググレカス」と言われるようなことで、助けを求めるのはどうなのだろうと思うが(もちろん人によって、その難易度は変わるのでなんとも言えないところではあるのだけれど)、自分でうまく解決できない問題について、質問したり助けを求めたりするのは決して自分だけが得をするというわけではないってことを言いたいわけ。もちろん、私達は自分でそれらの質問に答えるかどうか決めるし、答えたくなければ答えないだけ、そこに良い悪いもない。Twitterのようなところにする質問やヘルプはそんな感じでいいと思う。申し訳ないとか、恥ずかしいとか思う必要ないと思う。

皆さんはどう思われますか。

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雑感
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