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その国の社会が置かれている段階に対応する形で教え方が変わった

こんにちは。エビデンスもなく感覚的にものを話す阿部です。今回の話のテーマはその国の社会が置かれている段階に対応する形で教え方が変わったと言う話。私の場合は台湾ですね。

今から二十数年前、私が台湾の学生に感じた感想は

私はちょうど今から20年ほど前、台湾のランゲージセンターで日本語教師として働き始めました。その当時の学生は本当に熱心で、少しでもたくさんのものを学んでやろうと貪欲でした。(あ、別に今は貪欲じゃないとか、昔は学生が貪欲で熱心だったからよかったとか言う話をするつもりは全くありません。)思い返してみれば、日本語ができると言うだけで給料が上がるとか、いい仕事につくチャンスが増えるなんて言う話も当時はありました。それから娯楽も少なかったですよね。夜することといえば、家ではテレビを見たり家族と談笑したり、外ならカラオケに行く、または夜市を行くぐらいですか。そして大きな娯楽の一つであるテレビですが、ちょうど日本の番組などがたくさん入ってきた時期だったと思います。それも日本語に対するモチベーションを持った学生が増える原因になったとは思います。日本に対する憧れもあったでしょうし。

たくさんの人にとって、当時日本に行って勉強するなんて夢のような話で、日本人と話して練習するために、必死にそのチャンスを探そうとする学生もいました。(台湾ではないですが中国では会話の練習をするために、ホテルの前で日本人が出てくるのを待ち伏せする学生がいたなんて話も聞いています。)日本語を習得すると言うことが自分の知的好奇心を満たすということの上でも、自分の将来の仕事、または財産にポジティブな効果が得られるという意味でも非常に大きい意味を持っていたというのが多分20年位前だったような気がします。

そういった中でどんな授業やっていても、ある程度学生をついてきてくれると言う部分があったような気がするんですよね。(自分の昔のプリントとか教案を見てても、よくこんな教え方で授業に来てくれたなと、、)つまらない授業、役に立つのかわからない授業でも、それは一つの学ぶチャンスとして学生の皆さんは捉えていたような気がします。無口な先生が担当しているフリートークのクラスに通っていた学生から、あの先生に口を開かせると達成感を感じるんですみたいな話を聞いて驚いたことがあります。(まあ、その先生もわざとそうしていたのかもしれませんが、、)

社会は変化していき、、今は?

でも、社会は変化していき、言葉ができるというのが出世や昇給につながらなくなってきています。いい大学に入る事は自分の将来につながることですから、中高生のみんなは一生懸命学ぼうとしますが、目的が大学に入るためなので、それと関係ないことを勉強しようとしない学生もいます。
社会人も同様で、以前は夜はどこも生徒でいっぱいだった外語補習班と呼ばれるランゲージセンターも今は一番学生が多い時期の四分の一もいないんじゃないかと思います。それから、することが多くなったことに反比例して、勉強に行く時間が取れなくなった社会人も多いです。教師を始めた当初は週に三回ぐらい勉強に来ないと、なかなか上達していかないと私は思っていました。それが週に二回学ぶというのが普通になり、それから週に一日のクラス、それもクラス以外に勉強の時間を割かないで上手になりたいなんていう話も聞くようになってきました。

それと同時に教師に対する要求も高くなってきたと思います。以前はセンセイであるというだけでありがたがってもらえましたが、今はそうではありません。教師の地位もおそらく相対的に下がってきたのだと思います。(もちろん今でも殆どの学生が先生を尊重してくれます。でも以前は敬っていたという感じでした。)そのせいか、学校では教師が言ったことを、そのまま素直にやってくれないなんてことが起こるようになってきます。(うちだけか(汗))復唱練習など当たり前のようにしてくれましたが、今は読みたくないなんていう生徒もみますからね。(今は反省して復唱練習への持っていき方など工夫していますが)

それ以外に苦労をしたからこそ結果がついてくると言う考え方から、いかに楽して結果を得ようとする考え方に変わってきた部分はあるのかもしれません。早く上手になる方法を教えてくれとか、自分でじっくり考えてもらいたいのに、すぐ答えを教えてくれというとか見られるようになってきました。

私は生徒に「日本語を勉強しなさい、勉強すればもっと給料が高い仕事を見つけられるかもしれませんよ」なんて言ったこともないし、絶対言えません(昔そういう事を言う先生は見たことがありますが)。そしてとにかく勉強しなさいと言って勉強してくれる学生も減っていきます。そこで昔の学生が良かったとぼやきつつ、昔ながらの教え方をしていくのか、その時の社会が置かれた状況に、そしてそれに合わせて変化する生徒たちに合わせた授業を行っていくのかというのはその先生一人一人にかかってると思います。あー先生だけじゃないですね学校もですね、変わろうとしない先生をそのままにしておくのはある意味学校の問題でもありますから。

やっぱり昔のほうが?

「やっぱり昔のほうが良かった」と言いたいんじゃないの?

ここまで書いてあるのを読むと、そうおもわれますよね。昔に比べ楽になったと思うところをいくつかあげようと思います。

自分を表現したがる

以前だと例文とか凡例を渡すと、その内容を少しだけ変えただけで提出するような生徒が結構いました。なので、凡例を渡すときはすごく注意していたんです。でも、最近ですと、あまりやる気が無いような生徒でも、そういうことをあまりしなくなったような気がします。私の周りの生徒はあくまで自分を表現したい、自分の書きたいことを書きたいようです。(全然やる気ないのは何も書きません)真面目が学生でも結構な学生が凡例とほとんど同じような会話や文章を書いてきましたからね、たしか。それは社会がそういう時期だったからなのではとは感じています。

学びを楽しむ

別に以前の学生は楽しく勉強できなかったというわけではないですよ。ただ以前は楽しい学びはあまり役に立たないと思われていた感があります。この先生の授業は楽しいし、好き、でも一番役に立つ授業はつまらなくて、大変で、厳しいけど、あの先生の授業みたいに考えている人多かったような気がします。いまは楽しいかどうかと、役に立つかどうかをきちんとわけられる、もしくは楽しく学ぶということをポジティブに捉えられる学生が増えていると思います。

とにかく教えてくれではなくなった

以前だと授業時間内に自分で練習する時間を与えるのは先生も学生もサボるためみたいなふうに取られがちだったと思います。いまはそうでもないです。下手に復唱の練習をさせるぐらいなら、一人でシャドーイングの練習をさせたほうが効率の良いクラスもあります。いい意味でも悪い意味でも他の人と一緒に何かをするというのを嫌がる生徒が増えたのかなと思います。

どうしてこれを書いたかというと

社会が変化していくに連れ、生徒の様子も変わっていき、以前にはなかった生徒たちの長所が伸びてきていることもあるんですよね。それに気が付かず、以前には会った長所が見えなくなってくるのを嘆いているだけでは、生徒と教師、いい関係が作れないと思うのです。すべての学生は得意なこともあれば苦手なこともある。で教師はその学生に合わせて授業をデザインすべきなんですよね。妥協しろということではありません。今の学生の伸びやすいところが伸びるように促し、改善するところはスマートに改善できるようなチャンスを設置する。教師がそれをせずに改善すべきところを必死に伸ばそうとして、伸びやすいところに気がついていないなんて状態はある意味悲劇だと思うのです。教師も学生も楽しくなれないと思います。

実はこれ、ずっと書きたかったテーマなのです。なぜって?最近ベトナムやタイ、マレーシアなど東南アジアの先生のツイートを見ていると、「そうそう、台湾も昔そうだった」って思うこと結構あるんですよね。もちろん台湾が昔そうだったから、東南アジアの国の様子が台湾と同じ様になるとは限りません。ですが、参考にはなると思うんですよね。そういう私は日本の様子をよく参考にしています。これからどうなるのか、、もちろん全く同じ様になるとは思いませんけどね。

雑感
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