翻訳 translation

「わかっているよ」「わかってない」というやりとりに感じること

モヤッとした話です

わかってるよ

わかってない

なんて不毛な会話でしょう。どちらでも正しいと思うんです。これは中学生や高校生を教えて、やっと初めて気がついたことです。こちらが彼らの考えが不十分と思っていても彼らの認識ではわかっているということなんですね。でも、やっぱり我々の経験や知識または想像力からすると、彼らはわかっていないと思うわけです。そして、それを見て私たちは彼らの思考がそこに達していない、わかっていないと判断するわけですが、別に私たちがすべてわかってるわけでもないですよね。結局彼らの「わかっている」となんら変わりがない。そんな当たり前のことを私はずっと気がつかずにいました。うん、うん、わかる、わかると言っているそこのあなた。じゃあ、ここでいうような「わかる」と言うのはどのように深められると思いますか。

正直私もわかりません。ただ感覚としては、知識を得る、想像力を深める、様々な良い経験をするなどがあると思うのですが、知識は増えれば増えるほど頭の中を混乱させます。その膨れ上がった想像力はいつも私をミスリードします。経験だって私に間違った選択をさせる場合もあります。
だから結局人ってわかりたいものを信じていくしかないんだろうなって思うんです。できるだけポジティブに、様々な経験を知識を胸に刻み込んでいく。そしてもし自分がわかっていると思ったのと違う回答を手に入れたとしても、素直に自分が間違っていたと思う気持ちを忘れずにいけば人間は変わっていくし、時折間違った道を歩くことがあるかもしれませんが、きっときっと全体的には良い方向に向かっていく。そう信じるしかないのかなあって思います。

そうそう、先ほど知識、想像力、経験と言う話がありましたか、それらは接続することによって、もっと大きい意味をなすというのは最近よく感じます。何かのやり方を知ったとしても、その意義はきちっとつかめていないことがあるかもしれません。その意義、理由を知識として仕入れたとしても、経験がなければ自分の中に取り入れることができませんし、そこに感動や驚きがなければ、「腑に落とす」ことができません、私の場合は。まぁ人によっても違うのかもしれませんけどね。

コーヒー一杯分のご支援を

ご支援いただけると様々なICTによる実験が捗ったり、生徒たちのお菓子が増えたりします。😃

雑感
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