Twitterの投稿を見たあとウォーキングしてきました。というと、みんさんご存知ですね。つぶやきブログタイムです。
今日はこんな投稿を見ました。
そこで、自分はどうやってみんなの日本語を教えていたのか思い出してみました。
最初は新日本語の基礎の教え方を
私が日本語の教師を始めた時は、まだ新日本語の基礎という教科書を使用していました。日本に来て技術研修をする学生のために作られた教科書だったと思います、確か。で、その後文法項目などはほとんど一緒だけど、単語や例文が日本で生活する人向けになった「みんなの日本語」が出版されて、そっちを使うようになります。内容はほとんど一緒だったので「新日本語の基礎」教え方を踏襲してたと思います。「新日本語の基礎」を教えるときですが、当時指導書があったんです。一冊は「にほんごの教え方の秘訣」という各課をどう教えたらいいか詳しく書かれた本で、もう一冊は新日本語の基礎用の指導書。その当時、先生だった人は読んだ人が多かったんじゃないかなぁ。最初はほとんどその本のやり方を使って教えていたと思います。あ、あとは教室活動集なども使っていましたね。私が通った日本語教育養成講座は「日本語初歩」も「新日本語の基礎」も使っていなかったので、最初は本当に手探りでした。
教え方としては、まずは単語の導入、それから1つ目の文法の導入、練習Bの部分では文字カードや絵カードで練習した後、書いてもらう。あ、声だけでキューを出すのもありました。また、そこでゲームなどをすることもありましたね。インフォギャップ系のゲーム、ペアを探すゲームとかは好きでよくやってました。それ以外もゲーム集とかありましたし、それを使っていました。それから練習Cをして、かんたんにそれを発表して確認に練習Aを読んで次の文型へ、なんて方法でした。そういう形になるまでは一年以上かかったのかなぁ。当時は中国語がわからなくて直接法でやってたので、文型や単語の意味をきちんと伝えられるように、いつも悩んでましたし、単調になりがちな練習がどうすれば単調にならないのかというのも悩んでいたような気がします。
なぜ文型を習うのか提示をするために
そして、しばらくすると、「先生の説明はわかるけど、いつ使ったらいいかわからない」って言う話を時々学生から聞くようになったんです、確か。それから、すごく練習に時間をかけるようになります。私がその時出した答えは「文型をもっとコミュニカティブな手法を使って教える」というものでした。当時、文化初級とかSFJとか読んで、もっとコミュニカティブな練習をしなければって思ってたようです。何か状況やゴールを与えて、それを”習った文型”で解決するという方法だったのかな。ただ一つ一つの文法表現に対して細かく練習すると、とてつもなく時間かかるですよね。あまりにも時間がかかって上司から文句言われたので、ある程度いろんな文型を習ったあとにいくつかの文型が使える状況を考えて、その状況を習った文型を使ってクリアするという課題に変化したと思います。その教え方になってからは「先生の説明はわかるけど、いつ使ったらいいかわからない」と言われることはなくなったと記憶しています。
そうそう、CAN-DOならぬCAN-文型みたいなロールカード作りましたよ。勉強した文型を使わないと行けないシュチュエーションを書いたカードを作って、それをもとに学生と会話するんです。その当時は無理くり勉強した文型を使わせるためのシチュエーションを一生懸命考えたなぁ。でも、文型使わなくても課題をクリアしてしまう生徒が出たり、ただその文型が出ないがために詰まってしまう学生と見てどうなんだろうと思い始めた時期でした。それから、質問に対して文型で答えなさいなんて練習もしてもらってました。
で、文型ができるようになって何なの?
大きく変わったのは今の学校に行ってからですね。何が変わったかと言うと、誰かに会話だけやってるのって言われたんですよ。で、どなたかに初級からだって発表だってできるし作文だってかけるよって確か言われたんですよね。私はそれまでは初中級ぐらいからしか、指導してこなかったのでこの指摘は私にとってすごく新鮮でした。そこから随分教え方が変わったような気がします。その辺なってくると完全に「みんなの日本語」はリファレンスですね。例えば日本人に旅行のアドバイスをしましょうと言う単元でどんなことを言いたいか話し合って、その表現を教科書を使って勉強するなんて方法になって行きました。それがみんなの日本語を使っていた最後の方ですね。だから各課も飛ばし飛ばしでした。例えば「ください」と「ほうがいいですよ」を組み合わせてみたりとかそんな感じでした。くださいは14課で32課ですよね。でもあまり問題はなかったですね。
最初は脇目も振らず文型、文型、会話力、会話力って思って指導してましたけど、結局のところ台湾の中学生には日本語の文型や会話力を学ぶということが必ずしもいちばん大切なことではないかもと思い始めていたんですね。だから考える力とか発表する力とかそういうものも学べる授業にしたほうがいいのではないか、会話一辺倒ではだめなのではと思い始めたんですね。だから、いろんな国の校則を比較してみましょうとか、台湾旅行のアドバイスとかそういう単元が増えていきました。そんな中でみんなの日本語は生徒がわからないときは「〇〇課復習してください」って言うときぐらいしか出番がなくなっていきました。んで、結局その後can-do+トピックのまるごとに移行するんですが、、、
くり返しいいますが、、、
ほんとにしつこいですが、いいとか悪いとか言うつもり無いです。例えばアーミーメソッドじゃないですが、一人の先生がみん日でオーディオリンガルでひたすら練習したあとに、もうひとりの先生が並行してCAN-DOやコミュニカティブなアプローチ、プロジェクトベースで教えるという方法もないわけではないと思っています。どっかでそれでうまく回ってるところとかあるんじゃないのかなぁ。
話はそれてオーディオリンガル
そういえばオーディオリンガルの職人みたいなものを目指した時期ありましたね。まあ、やっていたのは頓珍漢なことでしたがΣ(・∀・;)昔の笑っていいとものタモリが観客に声かけてみんなで声返すみたいな。あれが自在にできればすごいなと思っていました。(それは違う?)でも結局合わせて声を出してくれない子供たちが増えてきたので、諦めたんですよね。あれ不思議だなぁ、シャドーイング的にはやってくれるのに、なんで繰り返しは嫌なんだろう。。でも、そっか山手線ゲームじゃないけど何かゲーム要素入れたオーディオリンガルとかやったら、逆にまた面白いのかもしれないなーってちょっと思ったりしました。というか、、やってたな。。
T私はごはんをたべましたSわたしはごはんをたべましたTぱんSわたしはぱんをたべましたTジュースS私はジュースを飲みましたって感じで
のりの良いクラスだと
T私はごはんをたべましたSわたしはごはんをたべましたTぱんSわたしはぱんをたべましたTうんこSうんこはぱんをたべました
なんていう下品でアホな練習もしてたような、、、
TわたしS1わたしT学校S2私は学校T友達S3私は学校に友達TいきましたS4私は友達と学校に行きました。
とか
これは先生の反射神経が試されるやつで
TわたしS1わたしT学校S2私の学校T(げっ)台湾S3私の学校は台湾T一番S4私の学校は台湾で一番Tいい学校S5私の学校は台湾で一番いい学校です
なんてこともあったような。。
思い返すと、あのときは日本語を口にするのが楽しいって雰囲気があったんだよな。ん?いまもないだけではないぞ「できる女のさしすせそ」とか無茶苦茶練習してたしなぁ。やはりやり方次第かな。ただ、頭の回転がついていけるかってのもオーディオリンガルの難しさのような気がする、、とおっとまた脱線脱線。
お後がよろしいようで、、、
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